20100914_01歴史や時代を語る際に使われる言葉。
「○○以前○○以後」。これを深夜ラジオに当てはめるとしたら、「ビートたけしのオールナイトニッポン以前ビートたけしのオールナイトニッポン以後」。
これに異論は無いだろう。
1981年1月1日。漫才ブーム真っ只中の正月にツービートのちっちゃい方がスタートした深夜放送。
「元旦やモチで押し出す2年グソ!」のオープニングコールで 始まり、「この番組はナウな君たちの番組ではなく、完全にオレの番組です」と宣戦布告。
裏番組の「ナッチャコパックインミュージック」がリスナーのハガキとの2wayコミュニケーションだったのを嘲笑うかのように、たけしのマシンガントークが炸裂した。
 
今回この原稿を書くにあたり、あるルートで第一回目の放送を入手し聴いたのだが、まぁ早い早い、そして当たり前だが声が若い。早口すぎて途中で何を喋っているかわからない時も。しかしそんな時は最強の笑い屋である高田文夫の合いの手という名のフォローが笑いを2倍にも3倍にも膨らませる。なんとも圧巻の放送であった。
たけしのANNの番組構成は、まずフリートーク。
業界裏話だったり自身のプライベートトーク、はたまた芸能人やスポーツ選手の悪口だったり下ネタだったり・・・。
何年か前に倖田某がある発言で祭り上げられたが、この当時にインターネットが存在していたら、大変なことになったであろう。それくらい過激トークの連続だった。
フリートークが一時間ほど続き、ワンマントークがひと段落したところでハガキのコーナーが始まる。このスタイルは、とんねるずやウッチャンナンチャン、そして伊集院光に至るまで深夜ラジオの王道スタイルとして、今もなお確立されている。
番組内ではさまざまな有名無名人がたけしの格好のネタとされたが、その中でも最も印象的だったのは演歌の巨匠・村田秀雄。ある住宅の前で勝手口と書かれた札を見て「勝手口さんとは珍しい名前だな」と言ったとか、村田英雄のあることないことがエピソードとして盛り上がる。番組ではムッチーと呼びリスナーから愛され、ついにはスタジオに生出演までするほど。イチ漫才師の深夜ラジオに大御所歌手が訪れるなど、前代未聞のことだった。
番組はちょうど10年続いたが、末期は欠席も多く、時報とともに「まただよ」と高田文夫が言い、後ろからたけし軍団の笑い声が聞こえる。そんな放送も今では懐かしい思い出だ。
1981年の正月に始まった「ビートたけしのオールナイトニッポン」は、1990年最後の木曜日で最終回。深夜放送の聴取率記録を樹立した番組にニッポン放送は敬意を表し、赤絨毯でたけしを迎えた。
金曜朝、学校中の男子生徒が江戸っ子口調になるとまで言われた伝説の番組に幕が下りた。
 
(Written by みぞてたかし)


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