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◆常識では・・・仁王立ちで死ぬ
弁慶の出自や大活躍の逸話などが、ほとんど『義経記』(ぎけいき、成立は1400年前後)という書物によって語られてきたので、一般的に、弁慶=義経 というものだった。そして、その弁慶は「押し寄せる敵から主君義経を守るため、義経の前に仁王立ちになり・・」という、まさに男の中の男というイメージ。

◆ホントは・・・実際には重要人物ではなかった
義経の家来に弁慶という名前の人がいたのは間違いないが、具体的な史実は一切残っておらず、重要な人物ではなかった。大活躍する部分が語り継がれているが、そのほぼ全部が脚色だと思われている。

弁慶の生い立ちと逸話
弁慶の母・弁吉は、二十歳になっても結婚相手に恵まれ無かった。そのことを悲しんだ両親は、出雲の国の結びの神(安来市西松井町)の出雲路幸神社に祈って良縁を得させようと考え、弁吉を出雲国へ旅出させた(熊野権現のお告げとする説あり)。
弁吉はお告げに従い、三年経た頃に山伏が来訪、出雲の神の縁結びにより妊娠する。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。

頼朝の幼名、頼朝の母親の出自と弁慶の両親の肩書き、性格などが良く似ていることが明らか。物語の作者は「せめてお話しの世界だけでも兄弟仲良くさせてやりたい」とでも思ったのだろうか。

また、この憶測が許されるなら「義経記」が弁慶の描写・演出に多くを割き、そしてなにより義経よりも弁慶を際立たせる演出も行い、弁慶に保護者的な様相を帯びさせている意図も理解できる。さらに、お芝居の中で、何故、弁慶が主人である義経を金剛杖で打ち据えることが出来たのか、という疑問にも明答を示す事ができる。


【出典】[謎解き日本史]/15 判官びいき/下 弁慶とは何者だったか(毎日新聞/02.07.26)

人間の死に方として、弁慶の立ち往生ほど強い印象を与えるものは古来、まれである。1966年、NHKの大河ドラマ「源義経」最終回のシーンは今も筆者の目に焼き付いている。平泉で義経たちが奥州藤原氏に討たれる場面。緒形拳ふんする弁慶は、押し寄せる敵から主君の義経を守るため、義経がこもる堂の前に仁王立ちになり、敵を斬(き)りまくる。しかし多勢に無勢。弁慶の腹、胸、頭部にも矢が貫通、彼は敵をにらみつけ、なぎなたを支えにしたまま息絶える。

『義経記』(室町時代初期)では、戦闘の最中、弁慶は義経と最後の言葉を交わす。「味方はほとんど討ち死にし、後は私ともう一人だけです。殿が先に死なれましたら、死出(しで)の山で私をお待ち下さい。私が先に死んだら、弁慶は三途の川でお待ちしましょう」。同性愛を思わせるほどの主従の固い絆(きずな)である。

弁慶像はこれほど生々しいのに、歴史学者からはその実在さえ疑われてきた。同時代の貴族の日記類には弁慶の名前は全く登場しない。鎌倉幕府の公式の記録『吾妻鏡』(鎌倉時代後期)で、ただ1カ所、兄の頼朝と対立した義経の一行が西国へ落ちていく場面で、義経に従う一人として弁慶の名前が現れる。

野口実・京都女子大教授は「義経の家来に弁慶という名前の人がいたのでしょうが、具体的な史実は一切残っておらず、重要な人物ではなかったのでしょう」と語る。これが現代の歴史家の主流の見方だろう。

だが『義経記』以降、弁慶は義経を押しのけて主役に踊り出る。能や歌舞伎では、義経より弁慶が主役の演目の方が多い。なぜ弁慶が生み出されたのか。故・和歌森太郎氏は、落ち行く義経は弱々しい優男(やさおとこ)のイメージだが、物語を活性化させるため、荒々しい男を対比させる必要があったからだと指摘した(木耳社『判官びいきと日本人』)。柔と剛、高貴と野性。義経と弁慶は同一人物の性格の表と裏の関係だというのだ。

弁慶の創作と、「義経=ジンギスカン説」とは、実は根が同じらしい。義経=ジンギスカン説ほど荒唐無稽(こうとうむけい)ではないが、義経は少なくとも岩手、青森経由で北海道へ逃れたとする「北行伝説」は、東北、北海道に根強く伝えられてきた。このルート上には、義経の逃亡にまつわる地名が各地に残り、「義経は北方へ逃れた」と信じてきた人は多い。

筆者はその可能性は薄いと見る。少なくとも『義経記』が登場したころは、平泉での義経の壮絶な最期とともに、弁慶の立ち往生が人々を酔わせていた。義経を平泉で死なせたくない、死ななかったはずだ、という物語は、判官びいきがさらにエスカレートした後で生まれたものと考える。

中世には義経物語を語る旅芸人が各地を放浪した。後世、東北や北海道を初めて訪れた人は、彼らのまいたタネが地名や伝説として残っていることに驚いただろう。物語の発生の歴史を知らず、結果だけを見れば、それは本物に見える。

判官びいきは、義経と一対となる弁慶を創作して義経と美しく“心中”させる一方、それとは全く矛盾する平泉からの義経の脱出物語をも伝えてきた。こう言うとロマンを壊すようだが、どちらも「あった歴史」ではなく「あって欲しい歴史」の中での作り話であり、人は歴史を「あって欲しい」ものとして眺めがちなのである。

なんだかちょっぴりショックですね・・・でも、どうやらこれが真実みたいですよ。

(Written by くしBK)
(Photo by IwateBuddy)