紅白歌合戦

昨日に引き続き、大晦日の「NHK紅白歌合戦」が待ちきれないという人のために、「NHK紅白歌合戦」の雑学を紹介!


■3年間だけあった個人を表彰する制度があった!
衣装、熱唱度、ステージでの活躍を審査して30万円相当の金杯、銀杯が贈られるというNHKらしからぬ(?)制度が紅白にあった。
第34回(1983年)から3年間にわたり続けられ、初代金杯は沢田研二、銀杯は水前寺清子が受賞。第36回(1985年)では司会とトリを務めた森昌子が金杯を獲得した。


■森進一の大ピンチを救った村田秀雄!
第25回(1974年)を記念して各25組が出場したこの年、トリを務めた森進一。ヒット曲『襟裳岬』を歌い始めたその時事件は起きた。
同日、レコード大賞を受賞した森は大慌てで『紅白』の会場に駆けつけたため、ズボンのチャックが全開に。ワンコーラスが終わった時、白組出演者が森の周りに集合し、村田秀雄が閉めてあげたとか。ちなみにチャック全開中、カメラは森の顔のアップしか映さなかったという。

【出典】週刊女性(2004.01.06/13合併号)


■昔はCMソングを歌ってはいけなかった!?
CMソングが紅白でも歌われるようになったのは、松田聖子が出てきた昭和55年(1980)年ぐらいから。それまではコマーシャルソングはもちろん、テレビのドラマ主題歌も映画主題歌までチェックされていた。それに他局が製作した歌もできればNGという時代だった。
今でも最高のレコード売り上げ数の記録を持つ「およげ!たいやきくん」はフジテレビの番組から歌われた歌。400万枚以上の売り上げを誇ったのに、歌った子門真人は出場できなかった。


■初めて曲メドレーを歌ったのは「ハイハイ3人娘」
基本的に紅白が一曲入魂スタイルなのは第1回からの決まりごと。はじめて曲メドレーで歌ったのは、昭和38年、園まり、中尾ミエ、伊東ゆかりが3人一組で「ハイハイ3人娘」として出場し、ワンコーラスずつ自分の歌を歌ったとき。
それに対抗して植木等も、クレイジー・キャッツを従えて2曲メドレーを歌った。


■第9回までグループ歌手には出場権が無かった!?
今では当たり前のようにグループ歌手が出演しているが、はじめのうちはグループ歌手に出場権は無かった。ザ・ピーナッツやAKB48のように女性だけでも、SMAPのように男性だけでも駄目だった。
この規定が第9回で破られることになった。その前年にロシア民謡の「ともしび」を大ヒットさせたダーク・ダックスがこの年になっても人気は上昇し続け、とうとう出場することになった。

【出典】「紅白歌合戦の舞台裏―誰もが知りたい紅白の謎と歴史―」(著・合田道人)


■紅白初の“出場辞退者”は、森繁久彌!
「紅白のコンセプトに同調できない」と、自らの意思で出場辞退を申し出た初の人物はあの森繁久彌である。
第17回(1966年)紅白の出演依頼を受けた森繁は、皮肉を交え断りを入れたという。


■以前は一般人が審査員をしていた!
紅白の審査員には、芸能、スポーツ、文化と幅広い分野から、その年を代表する人物が選ばれる。
だが、以前は、著名人に混じり、青森の主婦、熊本の会社員など、全国から一般人が審査員として会場に駆けつけて参加していた。


■北島三郎の初出場のギャラは交通費1万円だけ!
演歌界の重鎮、北島三郎。紅白歴代最多出演回数を誇るサブちゃんが「ギター仁義」で紅白に初出場したのは第14回(1963年)のこと。
今でこそ輝かしい実績を持つサブちゃんだが、初出場のギャラはお車代の1万円だったという。


■パトカーを使って移動のリハーサルを行っていた!
70〜80年代のテレビ黄金世代の人気歌手の大晦日は、レコ大→紅白のW出演。
出演歌手はパトカーや白バイによる先導で、レコ大終了後に大慌てで紅白会場に移動する必必要があった。
そのため、遅れることのないようにリハーサルでは、警官がストップウォッチを使って入念に移動のリハーサルを行っていた。

【出典】サーカスマックス(2006.12.20)


「NHK紅白歌合戦」の雑学は、明日もまだまだ続きますので、お楽しみに!