加藤登紀子2

巷に溢れる疑問をあっさり解決してしまう、敏腕リサーチャーがいる。
そんな彼は職業柄、様々なことを穴が開くほど調べてしまう癖がある・・・。それはタレントのプロフィールに関しても同様だ。
前回は、シンガー・ソングライターとして半世紀を超えるキャリアを誇る「加藤登紀子」さんの年表をご紹介した。

今回はそんな加藤登紀子さんの波乱万丈な人生のターニングポイント、大物達から受けた影響など…、ご本人のインタビューなどから抜粋したものをご紹介する。

敏腕リサーチャーの汗と涙の結晶を是非ご堪能あれ。


え…!?ドMなんですか??「紅の豚」出演時、“宮崎駿”から受けたすごい演出!!

映画の制作に先立って、ジーナが「サクランボの実る頃」を歌う場面を、実際に私たちが演技をしてVTRに撮ったんです。作画の参考用にって。そのとき、「Seront to us en fete!」という歌詞の部分で、「『fete』は、むしゃぶりつきたくなる唇で、色気を漂わせて」って、宮崎さんに言われて(笑)。すごい演出!と驚いたことを覚えています。アフレコでは、終盤の「もう終わったのよ」ってセリフを、宮崎さんに気に入っていただきましたね。「うまいなぁ、もう1回言ってください」って、何回も言わされました。大変だったのは電話でポルコを「馬鹿ッ」って叱るシーン。宮崎さんは「生きた年月分の男に対する憤まんを込めて、全身全霊でどやしつけて」って言うんですけど、わたしはそんなに恨みをためていないので(笑)。「男ってかわいいものよね」なんて思ってるから、しごかれて大変でしたね。36回くらいやり直し。それで、後日、記念に紙に「馬鹿ッ」って書いたおっきな“書”を宮崎さんに贈ったんです。その書はジブリの仕事場に今も飾ってくださっているそうです。
【出典】別冊カドカワ 2008.09


映画「居酒屋兆治」で受けた“高倉健”や“降旗康男”監督の気遣い

83年に『居酒屋兆治』に出てくれというお話が来た。最初、プロデューサーの田中嘉一さんからお話があって、わたしは健さんの超ファンだから、そんな大それたことを、女優もやったことのない私にやれるはずがない、と必死にお断りしたんですけど、「加藤登紀子さんに女優を求めていません。あなたが加藤登紀子として出てくれればいい」とおっしゃってくださって、ありがたいなあと思ってお引き受けしたんです。
最初のロケに行ったときに、「台詞が緊張しちゃう。思った声じゃない声でしゃべっちゃった気がする」と言ったら、健さんが、「いや、ぜんぜん気にしないで。あなたに言ってほしいのは、ラストの<人が心に想うことは誰にも止められないもの>というたった一行だけですから、あとは遊んでてください」と。
最初に健さんから「最後の台詞以外は遊んでてください」と言われたものだから、わたしもリラックスしちゃったんだけど、降旗さんは「こういう感情で」とかはいっさいなしで、「そこで串を一本ずつ肉に刺しててください」とか「このへんのものを拭き掃除しててください」とか。やることがいっぱいあるから、そこに日常が出てくる。ものすごく自然で、「ここで厳しい表情で」とか演技に関する要求はまったくない。「こうしててください」「ああしててください」だけで、「遊んでてください」につながるものですよね。どうやったらいいのかしら、とか思わないですむようにしてくれました。
【出典】ユリイカ 2015.02


同じ歌手として…、後輩として…、そして亡き夫の跡を継ぐ娘として…期待と感謝をする次女“Yae”

キャリアとお互いの表現方法が違っても同じ歌手。登紀子さんにとって娘・次女のYaeさんはどんな存在なのでしょう。
「音楽家同士の関係に早くなりたいです。親子でなければもっと仲良くなれそうですから(笑)。若いという事は自分の本質がそれほど分かっていなくても、みずみずしく溢れ出ている。制御できないし、制御しない魅力なんです。今の私は逆に自分をコントロールする術が身についていて、ばちっと決める確率が高いだけ、思いも強く伝わる。年をとるということは一つずつ得るものがあって、一つずつ失うものがある。だから私とYaeはいつもイーブンの関係にあると思うんです。たとえば同じ別れの歌を歌っても人生には始まりがあって終わりがあることを切実にわかっている私が歌うと否応なしに思いが強くなる。それほど思いの強くない歌にはその軽妙さにかえって魅力があるんです。Yaeも今の自分にある魅力を分かるべきだと思う。けれど、一方ではYaeが主人の暮らした場所で子育てをしながら暮らしの種を植えて頑張っているのは、素晴らしいと思います。私にはできなかったことだから…」
【出典】家庭画報 2010.11

家族を守るため、ソ連兵と戦った母“淑子”

終戦直後、ソ連軍が(登紀子さんらが住む)満州で略奪行為をしていたことがあったという。
「ソ連軍が怖くて日本軍が逃げる中、母は一人ソ連軍の指導部に乗り込んで行きました。そして『こんな乱暴を働いているのはおかしい』と訴えたそうです。司令部は母の進言を受け入れて略奪行為を取り締まりました。母は、どんな時も相手と向き合う強さを教えてくれました」
【出典】女性セブン 2015.04.23


ヒット曲「百万本のバラ」を歌うことを勧めてくれた“兄”

最初の「百万本のバラ」との縁を取り持ってくれたのは兄。兄が出張でロシア(ソビエト連邦)に行った際、「これ、ええ歌やんか。お前歌ってみたらどうや?」とお土産に買ってきたのが、当時ロシアの歌手プガチョワが歌っていた「百万本のバラ」のレコードだった。
【出典】マイフォーティーズ 2006.06


独断でコンクールに応募し、歌手への道を切り開いてくれた“父”

苦しい受験を乗り越え東大に入学した登紀子さん。入学当初はデモや部活に熱心だったが、時が経つにつれ、大学にも行かず恋人とデートに行き家にも碌に帰らないようになる。
そんな折に父が「お前シャンソンコンクールに出ないか。1位になるとヨーロッパに行けるぞ」という話を持ち掛けた。実は父はすでに応募しており、行き詰まりを感じていた登紀子さんもこの話に応じることに。レッスンを受けてコンクールに臨むも4位に終わったが、コンクールに敗れた翌日から次回の準備を重ね、見事翌年のコンクールで優勝を果たした。
【出典】婦人画報 1996.03


デビューから公私ともに支えてくれた事務所社長の“石井好子”

『デビューの頃は、化粧の仕方、舞台の歩き方、何から何まで手ほどきを受けたのでしたが、1972年の獄中結婚の時には、全面的に応援して下さり、その後、事務所から独立した後も、夫と一緒にお食事をしたり、お酒を飲んだりという親しいお付き合いが続きました。
夫が他界した後は、野菜の宅配の会員になって下さって鴨川自然王国の活動にも力になって下さったのです。
豪快で大胆で自由な人柄は、たくさんの人たちが家族のような気持ちで集い合う大きな太陽でした。本当に淋しいです。
最期まで凛とした姿を私達に残し、もうすぐ88歳というぎりぎりまで現役であり続けた好子さんに心からの拍手を送ります。』
【出典】加藤登紀子オフィシャルブログ 2010.07.22


多くの方との関りがあって今の加藤さんがいるんだなぁ…。
でも、加藤登紀子さんに本当に穴が開かないか…。ちょっぴり心配ではある。
しかし、私の探求心に終わりはない。
次回は一体誰に穴を開けることになってしまうのか…。

乞うご期待!!