ラジオが一番輝いていた時代……?
「テレビがなかった頃よ」
と老人が言う。
「やっぱり深夜放送がスタートした昭和40年代だな」
団塊の世代が言う。
「いやいや昭和50年代だよ」
「ネットラジオもある今が一番だよ!」
いろんな意見があると思う。
20090714_01いろんな思い入れがあると思う。
だけどこのコラムでは、1980年代のラジオを注目したい。
世の中がバブルに浮かれ、
昭和が平成に代わったこの時代。
テレビも不動産もジュリアナ東京も元気だったが、
ラジオも熱く、元気だった。
そんな1980年代のラジオ伝説を振り返ります。

1980年代ラジオ伝説
第一回「とんねるずのオールナイトニッポン〜史上最強の内輪王国〜」


とんねるずが「オールナイトニッポン」のパーソナリティとなったのは1985年10月。この年、深夜テレビから誕生した歌「一気」がヒット。「夕やけニャンニャン」で全国区になり、9月にリリースされた「雨の西麻布」がオリコン初登場5位にランクイン。まさにノリにのっている時期でのオールナイト進出であった。とんねるずのラジオの最大のウリはフリートーク。美空ひばりや長嶋茂雄といったビッグネームの名も飛び出る業界トークや、放送局やマスコミの危ない話を繰り広げる裏話には、聴いている方が「こんなこと喋っていいのかぁ」と真夜中の布団の中でドキドキしたものだ。そんなとんねるずのトークの中でも一番割合が高かったのは、マネージャーやスタッフ、二人の帝京高校時代の思い出といった内輪話。「マサトメがさぁ……」、「みやじー……」、「吉野がよぉ……」と有名人でもない固有名詞のオンパレードは、初めて聴く人にはチンプンカンプン。しかしその内輪の世界を共有しているリスナーにとっては、たまらない放送であった。
聴取率にして2%前後。テレビに比べると低い数字ではあるが、その分リスナーはコアな層が多く、時々とんでもないパワーを発揮する。

ある日の放送でのこと。歌手として次々新曲をリリースするもなかなか1位になれないとんねるず。「ザ・ベストテン」で1位になりたい彼らは、リスナーにハガキのリクエストが少ないと嘆く。「前の曲はレコード売上は2位なのにハガキの順位が低かった。次の曲がハガキで1位にならなかったら、俺たちはもうシングルは出さない」。リスナーはネタを書いて送るはずだったハガキをせっせと「ザ・ベストテン」に送る。その結果見事2位になり、とんねるずは感謝より先にリスナーにこう言った。「お前らやればできるじゃねえか。1位にはなれなかったが、認めてやろう」。

またある日のこと。自身のテレビ番組「ねるとん紅鯨団」の高視聴率に気をよくした木梨が番組中に「ねるとんってミズノの一社提供じゃない。あのCM俺たちやるよ」。とんねるずがミズノのCMをやったらどうなるかという話を、放送の大半を使い喋り続ける。その放送をミズノの上層部が聴いていて、その数ヵ月後には本当にミズノのCMタレントにとんねるずが起用された。
とんねるずは「芸がない」、「消える芸人」と言われ続けながら20年以上芸能界のトップシーンを走り続けている。あるテレビ番組で自分たちの芸のことを聞かれ彼らは「部室芸」と答えた。体育会系の石橋と木梨は、学校ネタやテレビの物まねなどを演じることで部活の人気者になった。「俺たちが面白いと思ったことが面白い」。部室がテレビやラジオになり、ねるとんや仮面ノリダーで「部室芸」が天下を獲った。その原点が常識に縛られない、自分たちの面白い話を喋り続け、それを熱心に聴くリスナーがいた「オールナイトニッポン」で築かれたといっても過言ではないだろう。

7年間続いた番組の終焉も、いかにもとんねるずらしい。
ある日、ニッポン放送の上層部の態度に業を煮やした石橋が番組をボイコット。普通ならフォローするはずの木梨も番組内でその模様を説明し、「(ニッポン放送は)やめさせると言ってるらしいが、貴明は悪くない」と反論。番組内で公然と局を批判し、その半年後に番組が終了した。

最終回は、1992年10月13日。
その後、新曲のプロモーションをかねての番組出演や石橋単独のレギュラー番組はあったものの、とんねるずとしてラジオのレギュラー番組は一本も放送されていない。あれから17年近く経った今でも「とんねるずのオールナイト復活希望」といったコメントを、あちこちの掲示板で頻繁に見られる。伝説のラジオが再び復活する日はあるのか?

(Written by みぞてたかし)